そしてこの映画を観ると、大切なひとと「未来」を語りたくなる映画です。
それは「希望」が生まれる現場をしっかり描いているから。
大切なことは新しさを求めることではなくて、大切なものを大切と思えるこころなんだな。
日本の地域で起こりつつある革命は、ゆっくりと静かに、創造的に私たちの未来を指し示してくれている。
その原動力は「学び」だ。学んだ人たちがつながって、少しずつ目の前の状況を変えている。
この映画に登場する人たちは、本当によく学んでいる。お互いに学び合っている。
この映画を観ることもまた大きな「学び」である。それは「おだやかな革命」に参加することでもある。
そして、日本の色々なところで、エネルギーの分野で穏やかな革命が起こっている。
エネルギーを使う側がもう少しいろいろ考えてもいいのではないかなと思いました。
できるだけ使わないということに。ぼく自身ももっと敏感でいたいと思います。
その力はあまりにも美しく、切なく、愛に満ちていて、胸が締め付けられそうにもなります。
でも、そこに「光」を感じます。パンドラの箱に残った「希望」のように。
社会の抱える問題に自発的に関わる多様な人々がいること。
映画『おだやかな革命』は、あの日以降のエネルギー自治を巡って各地の取り組みを描きながら、そこに蓄積される社会資本こそが、これからの暮らしの豊かさを育むのだと教えている。
幸せとは?生きるとは?その答えは、この映画の主人公たちのように、エネルギーやモノづくりを通じて一人一人が丁寧に繋がることなのかもしれない。
私も鳥取県・智頭町を舞台に、西粟倉の仲間たちのような素晴らしい循環を築いていきたいと思う。
マハトマ・ガンジーの言葉を思い出した。「しあわせとは、あなたが考えることと、あなたが言うことと、あなたがすることの、調和がとれている状態である。」
もがき、苦しみながらも、挑戦をし続け、調和を見出す革命家たちの懸命な姿に、心を打たれた。観終わった後、あなたの中にも小さな革命が起きているはずだ。私もそうであったように。
戦後、日本人は地方の農山漁村を飛び出し、思い通りにならない自然や他者、地域社会など、面倒な関わりは捨てて都市になだれ込んだ。しかし、煩わしさからの解放と引き換えに、自然や地域社会との関わりの中でしか得られない知恵や技、判断力を手放してしまった。暮らしの豊かさを、原子力発電や遺伝工学などのビックサイエンスに託し、行政・科学技術・経済に委ねきって、観客席の上から高みの見物を決め込んでしまった。そこには自分たちの暮らしを、自らの知恵を創意工夫でつくりあげる喜び、感動はない。地域の課題を、みんなで知恵を出し合って解決するマインドも失い、社会をつくる当事者ではなく、"お客様"になってしまったと言える。そんな当事者意識を失った一億総観客社会から、活力など生まれようもない。生産人口は減り、需要不足で経済は低迷し、税収も減り、行財政資源も縮小を余儀なくされ、高齢者を支える負担も核家族に重くのしかかる中、豊かさの基盤となっていた原子力というビックサイエンスが暴走し、私たちは狼狽した。成長を過度に求めるがゆえに、かえって根源的なリスクを構造的に抱え込んでしまった社会は、社会学者のウルリッヒ・ベックの言う「リスク社会」の蟻地獄そのものである。
地域との関わりを持たずにひとりで生きる一億総観客社会は、「高コスト社会」でもある。孤立が進めば進むほど、一人ひとりの生活維持コストは増える。この諸問題を解決するために、経済と科学技術の力だけに再び依存すれば、さらなる「リスク社会」の深みにはまり込むことは避けられないだろう。では、どうするか。その明確な答えが、このドキュメンタリー映画『おだやかな革命』に描かれていた。暮らしと社会に、「関わりの力」を復元することである。
自然や他者、地域社会との関わりを復元することは、私たちが観客席からグラウンドに降り、自分の暮らしの主人公になることを意味する。自分の力で社会をつくる側に回る。でもそれは仕方なく降りるのではなく、グラウンドでプレーした方がずっと楽しいから降りるのだ。自分を取り巻く環境に主体的に参加している、この映画の登場人物たちの姿は、自ら暮らしをつくりあげる喜びや感動を私たちに気づかせてくれる。それは私たちの社会を自分の手に取り戻すことであり、同時に災害・経済・病といったファクターに脆弱な「リスク社会」に備えるということでもあるということを、この映画は教えてくれる。